2006年05月10日

豊臣秀頼

1611年5月10日(慶長16年)、豊臣秀頼が家康の招きに応じて上洛し、二条城で家康と会見する。

豊臣秀吉の子。母は淀殿。豊臣政権の後継者となるも、後見人前田利家の死、石田三成の失脚後、家康の台頭で一大名に没落。大阪の役で敗れ、豊臣家滅亡を迎える。
淀殿は上洛に以前より反対の姿勢をとり続けていたが、1611年、秀頼は豊臣恩顧の大名、加藤清正、浅野幸長に守られ上洛し、遂に二条城で家康との会見が実現した。

関連する武士の歴史365日
1600年2年15年(慶長5年)、豊臣秀頼が、大坂城中で諸大名の参賀を受け、西の丸に赴き徳川家康に年賀を述べる。

1600年5月1日(慶長5年)、豊臣秀頼が、方広寺大仏殿に七重塔、講堂、廻廊を建立。
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豊臣秀頼

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この記事へのコメント

1. Posted by 昿野 洋一   2006年05月11日 01:02
3 はじめまして

私は下記のブログで「小早川秀秋」について紹
介しています。

 「関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋」
  http://ykblog.ameblo.jp/

今まで愚鈍な裏切り者として扱われた小早川秀
秋ですが、まったく正反対の人物像として紹介
しています。

こちらのリンク集にリンクさせていただきます。
2. Posted by 武士の歴史365日   2006年05月12日 10:00
昿野 洋一様
コメントありがとうございます。
 「関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋」参考にさせて頂きます。
小早川秀秋は愚鈍な裏切り者との評価ですが、戦闘に与えた影響力を鑑みるとその能力を再評価されるべきかもしれません。
リンクさせて頂きます。
3. Posted by 昿野 洋一   2006年05月13日 00:15
お返事とリンクありがとうございます。

まだまだ埋もれた武将っているのかもしれませ
んね。

新たな武将の発掘を期待しています。

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7.時代区分については、室町時代を足利義昭が京から追放された1573年迄、安土・桃山時代を1574年から1602年、江戸時代を徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた1603年からと仮定しております。
時代・性別 武士の歴史