2006年06月04日

豊臣秀頼

1615年6月4日(慶長20年)、豊臣秀頼と母、淀殿が自害し、豊臣氏が滅亡。23歳(1593年、誕生)。淀殿49歳(1567年、誕生)。

豊臣秀吉の子。母は淀殿。豊臣政権の後継者となるも、後見人前田利家の死、石田三成の失脚後、家康の台頭で一大名に没落。大阪の役で敗れ、豊臣家滅亡を迎える。
前々日からの野戦で後藤基次、真田信繁等の主力が壊滅し、落城。大野治長等の助命嘆願適わず、自害。豊臣家は滅び、大阪の役が終わる。

死体が判明しなかったことから西国に落ち延びたという伝説があり、「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きものいたり鹿児島へ」という童歌が流行った。


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1600年2年15年(慶長5年)、豊臣秀頼が、大坂城中で諸大名の参賀を受け、西の丸に赴き徳川家康に年賀を述べる。

1600年5月1日(慶長5年)、豊臣秀頼が、方広寺大仏殿に七重塔、講堂、廻廊を建立。

1611年5月10日(慶長16年)、豊臣秀頼が家康の招きに応じて上洛し、二条城で家康と会見する。
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7.時代区分については、室町時代を足利義昭が京から追放された1573年迄、安土・桃山時代を1574年から1602年、江戸時代を徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた1603年からと仮定しております。
時代・性別 武士の歴史